「悪人」とは誰だ

「いじめは悪だ」「殺人は悪だ」「宗教にのめり込むなんておかしい」「電通は異様だ」。そんな善悪論がこの社会には蔓延している。しかし、逸脱行動は突然起こるものではない。私達から見たら大き過ぎる不自然なそのズレは、毎日数ミリ、少しずつ積み重なってできたものであることを忘れてないけない。

 

たしかに、「善悪」で判断するのは楽だ。問題の本質を考えず、個人の資質にその原因を求めれば、一見解決したように見えるからだ。でもすべての行動には理由があり、全ての人にそれぞれの背景がある。「なぜ」起きたのか、そこに目をむけなければ、本質は見誤るだろう。

 

先の見えない中で毎日を生きる人たちがいる。だからこそ一瞬の逸脱した快楽に走り、生きている実感を手にしようとするのかもしれない。映画に「お前のコトなんて誰も信じない、単純労働のお前の言葉なんて」というシーンがあった。悲しいがレッテルが人の伝えたい言葉の行先さえも奪ってしまうという悲しい現実を表現しているように感じた。

 

私たちは誰もが加害者にも被害者にもなりえる。無関係なんかではない。対岸の話に思えた現実は隣り合わせの現実なんだ。どんなに頑張っても、知らない誰かたちが抱えるそれぞれのストーリーを知ることが出来ないのなら、人が人を「悪い」「悪くない」など判断できるのだろうか。

 

罪の意識なしに人の尊厳を傷つける人間と、法の一線を越えることは果たしてどこに違いがあるのだろうか。大切な人がいない人が多くはないか。自分がそっち側の人間だと思い腐って、失って悲しんだり、欲しがったりする人を馬鹿にするのでは私たちはますます分断されるばかりだ。