さようなら、20代。僕が終わりと永遠を感じた日々よ

今年、30歳になった。20代は辛く、険しく、貧しかったけれど、心動かされる瞬間と、些細な喜びに満ちた日々でもあった。

 

なんとか世捨て人にならずここまで辿り着けた。生き延びることができてよかった。今は安堵の気持ちが大きい。

 

20代とひと口に言っても、前半と後半では、ずいぶんとその様子が異なっていた。

 

大学生として、新社会人として、そして職を失って過ごした20代前半は、暗中模索の日々だった。

新社会人となって起きた出来事は今でも思い出しなくない。到底彼らを許すことは出来ない。ただ同時にあの時の僕は非力で何も出来ないのに正義心と理想だけが人一倍強かった。入社試験で千人中5番とかそんな結果が自分はこうあるべきという像を強固にしていた。

結果、僕はズタボロになった。夜1人で意味もなくよく泣いていたと思う。パーキンソン病だった祖父が、心配でよく電話をくれた。大丈夫かと。自分がその上司に話をしに行こうかと。ろれつは病気のせいでゆっくりだった。動かなくなりつつある身体でも、いつも味方になっていてくれた。でも僕は話したくもなく、電話も出なくなり、祖父と会うことも拒絶し始めた。この時のことは、今でもずっと悔いている。

祖父からスカイツリーに登ろうと誘われ、僕は嘘をついて断った。結局、祖父と祖母と母でスカイツリーに行ったのだが、外で写真を撮ったのもそれが最後になってしまった。僕はいつかは、またいつか来ると思っていたが、最後なんて案外簡単に訪れることを知った。

今でも会社のビルから見えるスカイツリーを見る度に思い出す。

 

あの時の強烈な葛藤。自分とは何者なのだろう、という問いと、早く戻らなければ自分はこの社会に戻れないという焦燥。

 

強烈に好き嫌いを主張する大学の先輩に憧れ、明確な将来像を自分のなかに持っている学部のクラスメートに嫉妬した。学生時代に好きだった異性も今思えば、自分の指針を持っていた。そして振り向かずに進む力、目の前の一歩に踏ん張る力、僕にはないそれを持っていた。

 

「将来の夢」や「やりたいこと」というワードは、劇薬だ。それは、誰かと酒を飲んだ時の高揚感に似ている。酒を身体に入れ、できもしないことを人と語り合っていると、なんだか自分がすごい人間になったような気がしてくる。そのまま良い気持ちでベッドに入り、目が覚めたときには何もかもを失っている。

 

そんな泡のように湧いてくる自分の夢、可能性、あるべき未来を追いかけて、僕は「やりたいことは必ずしもなくてもいい」と思えるようになった。やるべきことをちゃんとやること、それがやりたいことになっていくことも重要なことなのだ。

 

これは諦めでなく、祈りだ。

 

僕はやりたいことをやることより、誰かが求めていること、何か不があることを改善すること、新しい価値を見出すこと、人から必要とされること、何をするかより、それが何より自分にとって大事だったのだ。僕は今、周囲から必要とされている。自分が今、必要とされることを絶望していた時の自分に伝えたい。居場所は、具体的な場所なのではなく、その瞬間の周囲の人たちにどれくらい信頼されるかという拠り所なんだ。

街が出来る様に、人にも過程がある。積み重ねがその人を作っている。それはお金や職業では図れない。渋谷というもともとは川の集まる低地の村が、長い時間をかけて、西武グループによる渋谷からカルチャーを作り出すという理念に呼応していくように、若者の街に変わっていった。全てに土台と、変わりゆく過程と、今ある姿の意味があるはずなのだと思う。

 

自分の人生は自分のものだが、今、自分が立つこの人生の土台は、周囲の人間との様々な過程と願いによって出来ている。自分の人生は自分だけのものではない。それを忘れた時、人は表面しか見ることの出来ない、薄っぺらいものになってしまうのだろう。あのまま僕は失敗しなければ、たしかに地位と自尊心を保てていたが、人の痛みを知らず、人に動いてもらう術も、その人その人に過程があることにも目を向けらなれないような傲慢であることに気付かない30歳になっていたと思う。

 

物事の是非は、決断したときに決まるものではない。評価が定まるのは常に後になってからだ。もしかしたら、間違っているかもしれない。だからこそ、決して後悔しないよう今やれることを、目の前の一歩を踏ん張らないといけない。将来は大事だが、その将来はなんてこともない今日の積み重ねが作ってること、忘れないでいたい。

 

自分が今こうしていられる土台を作ってくれた人たち、もう一度出来ると再起を促してくれた人、無償の優しさをくれた人、僕はずっと忘れないし感謝しているだろう。

 

さよなら20代。幸せな時間だった。