僕は勉強が出来ない

 「僕は勉強は出来ない。でも、モテる。」


時田くんの勉強ができることへのアンチテーゼ。

頭がいいことと勉強ができることは違う。自分なりの判断基準を持ち、凝り固まった善悪論を振り払い、自分の言葉を持つ人はどこに行ってしまったのだろうか。

本来、勉強とは答えのない中で課題を設定し、自分なりの解を導くまでのプロセスである。しかし、学校教育とはそういったものではない。

いい学校に行く為に、良い学部に入るために、 いい職業につくために。では、なぜそうする必要があるのかということについて僕自身も苦しんだが、誰も答えはくれなかった。本当に悩んでいた。屁理屈を言うなと言われた。しかし、自分の背丈からでは見えない景色を教えてもらいたかっただけだったのだ。

周囲は盲目的に、つまりある種思い込みのように「 父が商社マンだから経済学部に行く。商社に入る」、「 家族が弁護士だから弁護士に」と進むべき道を決めていた。  

僕はそれを馬鹿馬鹿しいと斜めに見ていたが、 シンプルに方向を決め、生まれたときから引かれていたであろう仮線を走っていく姿に羨ましさも覚えていた。もっとシンプルに生きたい、 これが僕の願いだった。将来のため、という言葉さえも当時の自分には、握り締められる宝というより、手にしたら消えていく煙のようなものでしかなかったのだ。


本作で出てくるような哲学じみたことを語る同級生も、助けを求める弱き存在を導くことに快感を覚える先生も、本物の痛みの前では無力である。 時田くんの問いは自分の空虚さを突きつける言葉だらけだ。 痛みとは自己破壊だ。自己破壊は精神を再構築する。
学生時代に痛みを学ぶことは、生を知ることかもしれない。 痛みを自己に向けたとき、逃げるなと常に自分が自分に問いかける。時には逃げるだろう。無駄な日々を送るだろう。だが、無駄なことがあるから楽しさを見出せる。無駄なことから生まれる世の中を少し楽しくする発想は、アンバランスな不健全な精神から生まれていく。

 

やがて失う心地よい日々は、 離れるという経験によって永遠の感情となる。 永遠にそこにいたのではわからなかったであろう、痛みだけではない何か、学校にはそれがあったことを今になり知る。


駅前には再開発ビルが立ち並び、街から暗闇や煙が消えた。 新しいサービスは増え、金持ちと、立派な経歴をタトゥーのように目立つところにぶら下げて、包み隠すことを知らない人たちがインフルエンサーとして、画面に現れる。 勉強の仕方もシステム化され、良い大学へ進むために近道が可視化され、誰もが視界が良好になった。


でもなぜかみんな不機嫌そうだ。何かが、満たされていないのだ。

 

 


粋に生きるとは何か、この本には書かれている。