「怒り」

「怒り」を読んだ。「怒り」とは、伝わらないもどかしさや声にならない声そのものだ。しかし、この作品のテーマは「怒り」そのものではなく、信じるとは何か、伝えるとは何かという本質的な問いだ。人が人を信じられなくなった時、伝える術を失った時に生まれるものこそが怒りなのだ。

 

本作の軸となる三組の登場人物。彼らに共通するのは「自分ではどうしようもない人生に中にいる」という事だ。そしてそれを取り巻く人物たちを通して、信じたくても疑ってしまう人間の弱さや、信じてあげらなれなった自分への怒りをも描く。

 

特に「山神」という男。派遣労働者と生きる彼には、安心できる家も彼を支える恋人もいなければ、未来へと続いていく明日への渇望もない。そんな彼が、伝達ミスによりその日の仕事を失った日、彼にはない全てを持っているように思える女性から施しを受ける。その行為が山神の中に眠っていた声にならない声を呼び覚まし、逸脱行動に走らせた。

 

山神が沖縄の旅館で客のカバンを投げつけるシーンがある。彼はなぜ怒っていたのだろうか。それは、自分とそう歳も変わらない若者たちが酒を飲み、旅を楽しみ、明日への不安もなく過ごす姿を見て、もうそこには戻れない自分を再認識させたからだろう。一体どれくらいの人が彼の悔しさや焦燥感を理解できるだろうか。それとも”自分には関係ない話”と斬り捨てるだろうか。

 

「自分には関係ない」ーこれがこの作品の一つの重要な言葉だったと思う。三組の物語を通して、それぞれがそれぞれの問題、沖縄の基地問題や殺人事件の事を「自分には関係ない」と割り切っていく。その一方で自分の声にならない声をどうやったら伝えられるのか、相手を信じてもいいのかもがき、苦しむ。平行線で交わる事のないように思える三組の物語は、実は根深いところで交わっていた。

 

沖縄基地のシーンでの一コマでは、本気を伝えることの難しさ、そして伝わない怒りをただ声を大にして叫ぶことで本当に現実を変えられるのかという現代社会の本質的な問題を問う。誰にも叫びは伝わないのか、いくら訴えても伝わないのか、悔しい思いをするだけなのか。

 

「友香ちゃんはわかってるくれる側の人間だからそう言ったんだよ。わかる人は言わなくてもわかってくれる。わからない人はいくら説明しても分かってくれない」

 

わからない人に伝える方法を失い、伝えることの出来なかった叫びはいずれ「怒」となり、他人に刃を向け始める。そしてその刃はいずれ自分を苦しめることになるのだろう。

 

どうしようもない人生を生きる、山神と他の二組の差はなんだったのだろう。それは信じるに値するものがあったかどうかに尽きる。素性の知れない相手を信じるということ。相手の問題であるかのように思われた“信”は、やがて自らの心に問いかける。自分は本当に信じたいのだろうか。信じることは信じられるかどうかという証拠ではなく、信じたいかという自らの意志の問題だ。

 

人の弱さと強さを感じたセリフを最後に記そう。

 

「疑ってるじゃなくて、信じるんだろ?」