コスパ厨を蹴り飛ばして

以前、とある出版社の筆記試験で「無駄とは何か」という課題が出た。その時に書いた事を思い出した。

 

「無駄」とは「生きる」ことそのものである。いずれ死ぬと分かっているのにも関わらず、人間が生きていくことはある意味それ自体が無駄である。文学も芸術も哲学も宗教も、「いつか人は死ぬのになぜ生きるのか」というテーマと向き合い続け、発展させてきた。しかし、未だにその答えは出ていないし、これからも出ないだろう。

 

だが全ての人の共通する生きる意味の最大公約数があるのならば、それは自分で自分が生きてきたことの答えを見つけるということではないか。そしてその答えのパーツは、自分の価値観を根底から覆されるような「ハッとした瞬間」の積み重ねの中にある。私がいなかった世界と私がいた世界の少しの差は、決して無駄を排除した想定内から生まれる物ではなく、想定外の中から生まれる「こんなはずじゃなかった」から生まれるのだと、私たちはスクリーンに映し出される物語で何度も経験したはずだ。

 

昨今、何事も「無駄無駄」というコスパ厨が増えてはいないか。通った事のない道を通るのは無駄。説明会に行くのは無駄。自分探しは無駄。無駄は悪だと決めつけて、想定外を無くすことに奔走している人たちがいる。でも考えてみれば、生きることそのものが無駄であるのであれば、私たちに必要な事は無駄を楽しむ度量の大きさなのではないか。SNSが発展し、店や映画、あらゆるものに評価がつく時代になった。行ってみたかった店は食べログで評価が低いから行っても無駄だ。なんだか心惹かれた映画は、yahooのレビューが低かったから観るのは無駄だ。自分と気の会わない人と出会うのは時間の無駄だ。だから街に出ることを辞めて、マッチングアプリを使い、婚活サイトを使い、自分ではない誰かが決めた、自分と同じような考えを持った、相性の良さそうな安全牌と会う。

 

なんてつまらない日常なんだろう。無駄ってなんだ。もはや想定通りに生きる方が無駄ではないか?思ったようにしかならないという前提でいるから、苛立つのだ。きっと避けているは無駄なのではなく、自分の中に想定外の何かが降りかかってくることへの不安なのだ。恐れるあまり、良いのか悪いのか、誰かに判断の基準を引き渡さないと、自分が正しいのかさえ分からなくなっていく。いつからだろう、人が経験した事の無い未知を、どうなるか分からない事を無駄が呼び始めたのは。

 

でも思い出してみたい。自分が心震えた瞬間は、覚えている出来事はいつも枠の外にあったということ。想定外にある無駄と思えることにこそ、自分の価値観を根底から揺さぶられたことを。人の価値はどれだけ自分を変えられたのか、どれだけ相手を愛せたのかで決まると思う。少なくとも、私は自分の条件を満たすものを血眼で探す人間よりも、自分の価値観を壊してくれる何かとの出会いを待ち望み、自分なりの「意味」を作り出せる人間の方がよっぽど幸せだと思う。

 

 

無駄最高。

 

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禅のコトバ

身近にあるものに目を向けて、
思惑はなく、ただ今ここにあれ

 

・「只今

禅では今この瞬間が最も尊い。今、自分に与えられた生を、ただ生きる。無いものねだりでなく、あるがままの自分を大切に生きること

 

・「為せば成る、為さねば成らぬ何事も

米沢藩の大名・上杉鷹山の言葉。いかに失敗したか、いかに恥をかくか、その経験が人生となる。願ってばかりでないで努力し、逃げないで行動を起こすこと。人生における一番の失敗は、何もしないで後悔すること。過去を受け入れ、今この瞬間を生きる。

 

・「行住座臥

日頃の立ち居振る舞いが心を育てる。禅宗では、坐禅を組、托鉢もする。しかし特別なことをしていることだけが修行ではない。歩いたり、掃除をしたり、顔を洗ったり、ご飯を食べたりという、何気ない、普通の生活の一つひとつの所作が修行だと言われている。日頃の生活が乱れたり、言葉が乱れてくると、どうしても心は乱れていく。そして考え方や過ごし方は顔に出てくる。つまらない顔をしていれば当然誰も寄ってこない。逆に笑っていれば人は集まり、そこに縁が生まれる。縁が出来れば事が起きやすく、目標は叶う。
苦しい時こそ笑えば、おのずと運は舞い込んでくる。威儀を正して美しい生き方を心掛けれることが、自ら美しい人生になっていく。

 

・「冷暖自知

熱いと言われたお湯も、冷たいと言われた水も、実際に触ってみないと分からない。話を聞いただけでは、想像はできても実際はわからないのだ。自分で経験し成功や失敗を繰り返すことで初めて知ることができる。
水が冷たいか温かいかは、飲めばおのずと分かるように、体験でしか現実を理解することは出来ない。そうやって他人から言われなくても、自分のことは自分で分かる。真の悟りは自分で感得していくものである。失敗から学ぶことこそが真理かもしれない。

 

・「脚下照願

自分の足元をよくよく見よという意味。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
足元、土台がしっかりしていなければ、何にも手が届かないように、小さな積み重ねを疎かにしては願いが叶うことはない。

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希望や願いがあるからこそ、人はどんな状況でも心に余裕が生まれ、前を向ける。
貧困の中で苦しむ子供や就職がうまくいかない若者たち、介護の問題を抱える高齢者とその家族たち。世界を見わたしても、紛争や飢餓の問題が絶えることなくそこにあり続ける。それでも尚、「今日よりも明日が素晴らしい日になるかもしれない」という希望を胸に人は生きていく。

 

かつて正解と言われた観念は、脆く崩れ去っていた。何も考えなくても、皆と同じことをしていれば、踏み外さなかった社会はたしかに考えるコストをなくし、生きやすいものだったかもしれない。考えること、自分の心を見つめる事は苦しい作業だからだ。でももう逃げられない。「~と比べて自分は」という他人由来の幸せは決して続くことはないと私たちは確かに理解したのだ。

 

これから先は、答えのない中でそれぞれが自分なりの正解を作っていく時代だ。昨日まで流行ったラブソングが明日になっても誰かの心に届いているとは限らない。だからこそ、誰かにではなく、「誰に届けるのか」「なぜやるのか」という地図が必要だ。
目的地さえしっかり持っていれば、行き方なんていくらでもあるのだ。海が荒れていれば、陸路で。道がなければ船で。

 

正解なんてあってもないようなものだ。という余裕がきっと日常を支えてくれる。その意味では”禅”とは生き方の地図であり、従来の正しさが崩れ、肩書を外した時に突き付けられる自分とは何者という問いに困惑する今の時代だからこそ必要な考え方かもしれない。答えは自分の中にしかない。

 

最後に、戦争を経験し、社会のパラダイムシフトの中で自らの価値観を大きく変えることになった暮しの手帖の創業者、花森さんの言葉を引用して終わろう。

 

毎日の暮しこそ守るべきものだ。毎日の暮しを犠牲にしてまで闘うものなど何もなかった。
毎日の暮しより、大切なものがあると思っていた。しかし、何よりも優先すべきことだと思っていたものが間違っていたのだ。
今日よりも明日、豊かになる。

 

 

 

 

 

 

電通。他人依存の国、ニッポン。

 昨日、東京大学卒の電通で働いていた女性の自殺に労災が認められた。個人的に気になる出来事であり、インターネット空間にある様々なコメント見た。そこで僕は違和感を覚えた。

 

コメントは、大きく3つのタイプに分けられた。

  1. 「優秀だったのに本当に可哀想」という同情的なもの。

  2. 「これが報酬の対価。電通なんてろくな会社ではない」という頭ごなしの電通批判。

  3. 「本当に頭の良い人は電通には行かない」「自分は幸せだ」という事件を通して、自分の正しさを認識するかのようなコメント。

 

嫌な言い方ではあるが、2、3のようなタイプのコメントをしている人間は、「電通」と関わりのない階層の人間だと思う。仮に知り合いに一人でも電通で踏ん張って働いている人間や、本質と向き合い続けCMを制作している人間がいるならば、この悲惨な事件を、そんな鈍った刃で切り取ったような、お粗末な切り口で言葉を発したりしないだろう。

 

10年前の過労死事件を反省していないと、誰かが言う。真偽の分からない噂話や2ちゃんに落ちているような情報を元に、善悪論で語っても現実は変わらない。また10年前の繰り返し。

 

事の本質にはさほど興味などなく、ただいい会社に入れなかったから大企業は駄目だと言い、学がないから東大出ても意味がないと言い出す。世の中には、何かと比較することでしか自分の生き方を肯定出来ない人間が作り出した価値観で溢れている。

 

こういった事件が起きる度、自分なりの価値観や考え方を持たない人間は、誰かの流した情報やランキングに踊らされて、永遠に他人の人生を生きるのだと思い知らされる。