『きらきらひかる』

この世には二種類の人間がいる。「普通の人間」と「普通ではない人間」だ。そして時として、「普通ではない人間」は互いに引きつけ合い、あらゆる障壁を飛び越える程のエネルギーを生み出すことがある。

 

アルコール依存気味で情緒不安定の笑子、ゲイでありながら笑子の夫で医師である睦月、睦月の恋人であり、結婚後も笑子に嫉妬するでもなく、むしろ性別を超えた友情を築く紺。あまりにも「普通」ではない歪な関係だ。一体、何人が彼らを理解するだろうか。いや、理解しようとするのだろうか。

 

しかし、彼らは互いの欠けている部分を補い合い、未来のない真っ暗闇にいるかのような不安を原動力にし、困難を希望へと変えた。三人の不思議な生活もどこまで続くかはわからない。だが彼らの前に立ちはだかる困難が、彼らの絆を強くしていくことは間違いないだろう。

 

僕はこの本を読んで、抑圧は、それに対抗する力を生み出してきた歴史を思い出した。それは宗教であり、政治であり、思想であり、性別であり、友情であり、あらゆる領域での歴史である。彼らの「夫婦」の形は確かに普通ではないけれど、笑子と睦月は紛れもなく愛し合ってる。「普通」を基準として、そこからはみ出した端数を切り捨てる現在の夫婦制度とは何か考えさせられた。

 


Billy Joel - She's Got A Way Live 1977

 

きらきらひかる (新潮文庫)

きらきらひかる (新潮文庫)

 

 

 

その便利、必要ですか?

ここ数年のテクノロジーの進化は、僕たちの生活をガラリと変えた。僕が中学生の時、ネット通販なんてろくなものを売ってない危険なモノと見なしていたし、聞きたい曲があればなけなしのお金を持ってツタヤにチャリで行っていた。誰かと話すときも、携帯なんてあってもないようなものだったから、塾や部活が友達に会いに行く口実だった。平成生まれではあるけど、まだネットも今ほど普及していなかったから情報を得るにも一苦労でよく祖父に電話して質問したり、図書館に行ったりと、何かを得るにはそれ相応の苦労みたいなものがあった。

 

でも、僕はこの時代が不便だったとは思わない。むしろ何かを得る為には、それ相応の対価を払い、汗をかくべきものだという考えが身に付いたからだ。手軽に得られる楽しさは、消えていくのも早いように思う。

 

世の言う、便利さが本当に便利なのかと気づいたのは18くらいだったかもしれない。当時、デフレ真っ只中だった日本は松屋吉野家などのファストフード店でし烈な価格競争が行なれていた。たしか価格は280円とかそんくらいだった。最初はその安さに感激していたし、しかも24時間営業。なんて便利な社会だなんて感激したりもしていた。

 

でもある時に気付いた。この安さを実現するのに、安い賃金で長時間使われる労働者の存在が不可欠だ。そして彼らは従業員であり、消費者である。この一杯のメシが運ばれるまでに一体どれくらいの取引業者がいるのだろう。想像したのだ。

 

結局、安さや長時間を売りにした競争は、ただパイを奪い合い、市場を大きくしない。一度下がった価格や長時間化した営業時間は、他の競合とのひしめきあいの中で、なかなか是正出来ず、この積み重ねは物価上昇を遠のかせる一因となり、関係ないように思っている我々客にもその影響は巡り巡ってくる。安さの裏には理由がある、一杯の牛丼が我々にいつも問いかけている。

 

そして最近、アマゾンやネット通販の普及に伴い、物流量が増大し、宅配業社も厳しい状態に置かれている。時間指定しているのに自宅にいない消費者、突然今持ってこいという消費者。「明日届く」という驚異的なスピードにばかりに目をやって、その裏に何があるのか彼らが考えることはないのだろう。

 

今ある便利さのほとんどが「お客様は神様」という思想のもとの無茶な要求の上に成り立っているのでないか。誰かが便利になるために誰かに過度な負担を強いるようなシステムは本当に便利なのか?服なんて明日に届かなくていいだろう、家にあまりいないなら直接、宅配業者の物流センターに取りに行け。世のサービスが生活者に合わせた形として生まれるならば、働き改革なんてしても意味をなさない。関係ないように思える昨今の過労死事件は、企業と労働者の話ではなく、企業と労働者と消費者の話なのだ。我々が支持しなければ、企業は消えていくはずなのだから。

 

宅配だけの話ではない。レストランやホテルでクレームを付ける客。何かを言えば、ネットに書かれるというリスクを負った側は、そんな客をも無碍には出来ない。日本は「ブラック消費者大国」だと思う。企業にブラック企業というレッテルを張るのもいいが、そもそもその企業で働く労働者であり、消費者である我々のマインドが変わらなければ、取引先にも無理難題を平気で突き付けるだろう。

 

でもそうして得た「楽さ」や「便利さ」の裏にある歪みは、必ず最後何らかの形で自分に降りかかるだろう。
断わる勇気を持とう。客は神様ではない、おかしいものは突き返す一線を持とう。こんな便利になったように見えて、疲弊した街ゆく人々を見て、変わらない日本の産業構造を見て、そんな便利やめちゃえば?と僕は思う。

「怒り」

「怒り」を読んだ。「怒り」とは、伝わらないもどかしさや声にならない声そのものだ。しかし、この作品のテーマは「怒り」そのものではなく、信じるとは何か、伝えるとは何かという本質的な問いだ。人が人を信じられなくなった時、伝える術を失った時に生まれるものこそが怒りなのだ。

 

本作の軸となる三組の登場人物。彼らに共通するのは「自分ではどうしようもない人生に中にいる」という事だ。そしてそれを取り巻く人物たちを通して、信じたくても疑ってしまう人間の弱さや、信じてあげらなれなった自分への怒りをも描く。

 

特に「山神」という男。派遣労働者と生きる彼には、安心できる家も彼を支える恋人もいなければ、未来へと続いていく明日への渇望もない。そんな彼が、伝達ミスによりその日の仕事を失った日、彼にはない全てを持っているように思える女性から施しを受ける。その行為が山神の中に眠っていた声にならない声を呼び覚まし、逸脱行動に走らせた。

 

山神が沖縄の旅館で客のカバンを投げつけるシーンがある。彼はなぜ怒っていたのだろうか。それは、自分とそう歳も変わらない若者たちが酒を飲み、旅を楽しみ、明日への不安もなく過ごす姿を見て、もうそこには戻れない自分を再認識させたからだろう。一体どれくらいの人が彼の悔しさや焦燥感を理解できるだろうか。それとも”自分には関係ない話”と斬り捨てるだろうか。

 

「自分には関係ない」ーこれがこの作品の一つの重要な言葉だったと思う。三組の物語を通して、それぞれがそれぞれの問題、沖縄の基地問題や殺人事件の事を「自分には関係ない」と割り切っていく。その一方で自分の声にならない声をどうやったら伝えられるのか、相手を信じてもいいのかもがき、苦しむ。平行線で交わる事のないように思える三組の物語は、実は根深いところで交わっていた。

 

沖縄基地のシーンでの一コマでは、本気を伝えることの難しさ、そして伝わない怒りをただ声を大にして叫ぶことで本当に現実を変えられるのかという現代社会の本質的な問題を問う。誰にも叫びは伝わないのか、いくら訴えても伝わないのか、悔しい思いをするだけなのか。

 

「友香ちゃんはわかってるくれる側の人間だからそう言ったんだよ。わかる人は言わなくてもわかってくれる。わからない人はいくら説明しても分かってくれない」

 

わからない人に伝える方法を失い、伝えることの出来なかった叫びはいずれ「怒」となり、他人に刃を向け始める。そしてその刃はいずれ自分を苦しめることになるのだろう。

 

どうしようもない人生を生きる、山神と他の二組の差はなんだったのだろう。それは信じるに値するものがあったかどうかに尽きる。素性の知れない相手を信じるということ。相手の問題であるかのように思われた“信”は、やがて自らの心に問いかける。自分は本当に信じたいのだろうか。信じることは信じられるかどうかという証拠ではなく、信じたいかという自らの意志の問題だ。

 

人の弱さと強さを感じたセリフを最後に記そう。

 

「疑ってるじゃなくて、信じるんだろ?」  

 

「悪人」とは誰だ

「いじめは悪だ」「殺人は悪だ」「宗教にのめり込むなんておかしい」「電通は異様だ」。そんな善悪論がこの社会には蔓延している。しかし、逸脱行動は突然起こるものではない。私達から見たら大き過ぎる不自然なそのズレは、毎日数ミリ、少しずつ積み重なってできたものであることを忘れてないけない。

 

たしかに、「善悪」で判断するのは楽だ。問題の本質を考えず、個人の資質にその原因を求めれば、一見解決したように見えるからだ。でもすべての行動には理由があり、全ての人にそれぞれの背景がある。「なぜ」起きたのか、そこに目をむけなければ、本質は見誤るだろう。

 

先の見えない中で毎日を生きる人たちがいる。だからこそ一瞬の逸脱した快楽に走り、生きている実感を手にしようとするのかもしれない。映画に「お前のコトなんて誰も信じない、単純労働のお前の言葉なんて」というシーンがあった。悲しいがレッテルが人の伝えたい言葉の行先さえも奪ってしまうという悲しい現実を表現しているように感じた。

 

私たちは誰もが加害者にも被害者にもなりえる。無関係なんかではない。対岸の話に思えた現実は隣り合わせの現実なんだ。どんなに頑張っても、知らない誰かたちが抱えるそれぞれのストーリーを知ることが出来ないのなら、人が人を「悪い」「悪くない」など判断できるのだろうか。

 

罪の意識なしに人の尊厳を傷つける人間と、法の一線を越えることは果たしてどこに違いがあるのだろうか。大切な人がいない人が多くはないか。自分がそっち側の人間だと思い腐って、失って悲しんだり、欲しがったりする人を馬鹿にするのでは私たちはますます分断されるばかりだ。

 

 

2017年

ついに2017年になった。いつも通りの元旦。違和感もない。でも、このいつも通りの元旦を送れたことは幸せな事だ。もし試験に落ちていたらまだ苦しい時間が続いていたかもしれない。


母と近所の神社にお参りに行く。子供の手を引いて歩く親子、車イスを押しながら申し訳なさそうに並ぶ老夫婦。入り口では、都議会選に立候補する議員の方が、手にたくさん持った名刺を渡し、挨拶をしていた。無視をされても頭を下げて。


彼の経歴を見るとかなり色々な事に挑戦してきたようだった。そして彼にも、ここにいるそれぞれの家族のように守るべき妻と子供がいる。まだ道半ばのこの瞬間が一番辛いだろう。安定した羨まれる何かを捨てた事を悔やむ日があるのだろうか。


でも、陽はまた昇る。いつも突き抜けるブルーを空に掲げる元旦はそんなことを伝えているように感じる。


人は選択肢を一つ手放す時、自由を一つ差し出す時、その一つ身軽になった手で大切な誰かに手を差し伸ばすのだろう。


子供の頃には退屈に思えた単調な日常は、身軽になるほどに明らかになっていく日常だった。


入り口からほどなくしてたどり着いた階段から振り返ると、議員が手から一つ差し出した名刺を、子供が受け取っていた。


頑張ろう、それだけが全ての参拝者の最大公約数だ。



コスパ厨を蹴り飛ばして

以前、とある出版社の筆記試験で「無駄とは何か」という課題が出た。その時に書いた事を思い出した。

 

「無駄」とは「生きる」ことそのものである。いずれ死ぬと分かっているのにも関わらず、人間が生きていくことはある意味それ自体が無駄である。文学も芸術も哲学も宗教も、「いつか人は死ぬのになぜ生きるのか」というテーマと向き合い続け、発展させてきた。しかし、未だにその答えは出ていないし、これからも出ないだろう。

 

だが全ての人の共通する生きる意味の最大公約数があるのならば、それは自分で自分が生きてきたことの答えを見つけるということではないか。そしてその答えのパーツは、自分の価値観を根底から覆されるような「ハッとした瞬間」の積み重ねの中にある。私がいなかった世界と私がいた世界の少しの差は、決して無駄を排除した想定内から生まれる物ではなく、想定外の中から生まれる「こんなはずじゃなかった」から生まれるのだと、私たちはスクリーンに映し出される物語で何度も経験したはずだ。

 

昨今、何事も「無駄無駄」というコスパ厨が増えてはいないか。通った事のない道を通るのは無駄。説明会に行くのは無駄。自分探しは無駄。無駄は悪だと決めつけて、想定外を無くすことに奔走している人たちがいる。でも考えてみれば、生きることそのものが無駄であるのであれば、私たちに必要な事は無駄を楽しむ度量の大きさなのではないか。SNSが発展し、店や映画、あらゆるものに評価がつく時代になった。行ってみたかった店は食べログで評価が低いから行っても無駄だ。なんだか心惹かれた映画は、yahooのレビューが低かったから観るのは無駄だ。自分と気の会わない人と出会うのは時間の無駄だ。だから街に出ることを辞めて、マッチングアプリを使い、婚活サイトを使い、自分ではない誰かが決めた、自分と同じような考えを持った、相性の良さそうな安全牌と会う。

 

なんてつまらない日常なんだろう。無駄ってなんだ。もはや想定通りに生きる方が無駄ではないか?思ったようにしかならないという前提でいるから、苛立つのだ。きっと避けているは無駄なのではなく、自分の中に想定外の何かが降りかかってくることへの不安なのだ。恐れるあまり、良いのか悪いのか、誰かに判断の基準を引き渡さないと、自分が正しいのかさえ分からなくなっていく。いつからだろう、人が経験した事の無い未知を、どうなるか分からない事を無駄が呼び始めたのは。

 

でも思い出してみたい。自分が心震えた瞬間は、覚えている出来事はいつも枠の外にあったということ。想定外にある無駄と思えることにこそ、自分の価値観を根底から揺さぶられたことを。人の価値はどれだけ自分を変えられたのか、どれだけ相手を愛せたのかで決まると思う。少なくとも、私は自分の条件を満たすものを血眼で探す人間よりも、自分の価値観を壊してくれる何かとの出会いを待ち望み、自分なりの「意味」を作り出せる人間の方がよっぽど幸せだと思う。

 

 

無駄最高。

 

f:id:suwan_05:20161025172920p:plain

 

 

禅のコトバ

身近にあるものに目を向けて、
思惑はなく、ただ今ここにあれ

 

・「只今

禅では今この瞬間が最も尊い。今、自分に与えられた生を、ただ生きる。無いものねだりでなく、あるがままの自分を大切に生きること

 

・「為せば成る、為さねば成らぬ何事も

米沢藩の大名・上杉鷹山の言葉。いかに失敗したか、いかに恥をかくか、その経験が人生となる。願ってばかりでないで努力し、逃げないで行動を起こすこと。人生における一番の失敗は、何もしないで後悔すること。過去を受け入れ、今この瞬間を生きる。

 

・「行住座臥

日頃の立ち居振る舞いが心を育てる。禅宗では、坐禅を組、托鉢もする。しかし特別なことをしていることだけが修行ではない。歩いたり、掃除をしたり、顔を洗ったり、ご飯を食べたりという、何気ない、普通の生活の一つひとつの所作が修行だと言われている。日頃の生活が乱れたり、言葉が乱れてくると、どうしても心は乱れていく。そして考え方や過ごし方は顔に出てくる。つまらない顔をしていれば当然誰も寄ってこない。逆に笑っていれば人は集まり、そこに縁が生まれる。縁が出来れば事が起きやすく、目標は叶う。
苦しい時こそ笑えば、おのずと運は舞い込んでくる。威儀を正して美しい生き方を心掛けれることが、自ら美しい人生になっていく。

 

・「冷暖自知

熱いと言われたお湯も、冷たいと言われた水も、実際に触ってみないと分からない。話を聞いただけでは、想像はできても実際はわからないのだ。自分で経験し成功や失敗を繰り返すことで初めて知ることができる。
水が冷たいか温かいかは、飲めばおのずと分かるように、体験でしか現実を理解することは出来ない。そうやって他人から言われなくても、自分のことは自分で分かる。真の悟りは自分で感得していくものである。失敗から学ぶことこそが真理かもしれない。

 

・「脚下照願

自分の足元をよくよく見よという意味。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
足元、土台がしっかりしていなければ、何にも手が届かないように、小さな積み重ねを疎かにしては願いが叶うことはない。

______________________________________________________________________

 

希望や願いがあるからこそ、人はどんな状況でも心に余裕が生まれ、前を向ける。
貧困の中で苦しむ子供や就職がうまくいかない若者たち、介護の問題を抱える高齢者とその家族たち。世界を見わたしても、紛争や飢餓の問題が絶えることなくそこにあり続ける。それでも尚、「今日よりも明日が素晴らしい日になるかもしれない」という希望を胸に人は生きていく。

 

かつて正解と言われた観念は、脆く崩れ去っていた。何も考えなくても、皆と同じことをしていれば、踏み外さなかった社会はたしかに考えるコストをなくし、生きやすいものだったかもしれない。考えること、自分の心を見つめる事は苦しい作業だからだ。でももう逃げられない。「~と比べて自分は」という他人由来の幸せは決して続くことはないと私たちは確かに理解したのだ。

 

これから先は、答えのない中でそれぞれが自分なりの正解を作っていく時代だ。昨日まで流行ったラブソングが明日になっても誰かの心に届いているとは限らない。だからこそ、誰かにではなく、「誰に届けるのか」「なぜやるのか」という地図が必要だ。
目的地さえしっかり持っていれば、行き方なんていくらでもあるのだ。海が荒れていれば、陸路で。道がなければ船で。

 

正解なんてあってもないようなものだ。という余裕がきっと日常を支えてくれる。その意味では”禅”とは生き方の地図であり、従来の正しさが崩れ、肩書を外した時に突き付けられる自分とは何者という問いに困惑する今の時代だからこそ必要な考え方かもしれない。答えは自分の中にしかない。

 

最後に、戦争を経験し、社会のパラダイムシフトの中で自らの価値観を大きく変えることになった暮しの手帖の創業者、花森さんの言葉を引用して終わろう。

 

毎日の暮しこそ守るべきものだ。毎日の暮しを犠牲にしてまで闘うものなど何もなかった。
毎日の暮しより、大切なものがあると思っていた。しかし、何よりも優先すべきことだと思っていたものが間違っていたのだ。
今日よりも明日、豊かになる。